私の周りには私を客観視して、伝えてくれる仲間がいる。
大人になると、そういう心から愛してくれて、苦言を呈してくれる人は減るものだ。
怒られる回数も減るし、注意される回数も減る。
そして、悲しんでいたり、無理をしていても気づいてもらえることも減るし、
孤立していても気にかけてくれる人も減っていく。
今までは親や友達がそうだったが、現代ではあまり人に関わらないように、
家族すらはれものに触るように生きているように思う。
私も含めて。
それは、誰かの迷惑になってはいけない、だったり、
遠慮や謙遜が美徳だったりする。
明らかに困っている災害地やSOSには積極的に関わろうとする。
中には自己満足の人もいるでしょうが、日本人には助け合いたい、
誰かのためになりたいという気持ちが残っていると思う。
でも、その誰かのためにするっていう行動が、
明らかになっていないセンシティブな状況だったり、
誰かに知られてはいけない場合、
例えば、虐待なら加害者にしられてはいけない、
いじめなら主犯にしられてはいけない、
保身に回る大人に知られては握りつぶされるなど。
正義を貫いて生きたい気持ちと、正義を貫いて生きられない風潮がせめぎ合っていると思う。
友人や仲間に苦言を言うのは勇気がいるものだ。
相手のために言っているとしても、結果関係を崩すかもしれない。
その間に、信頼関係や絆がなければ、苦言は苦言のままで終わってしまう。
それが聞き手が苦言ではなく、思いやりからのメッセージと受け取れたとしたら、
その人の人生は変わるかもしれない。
思いやりや優しさとは、相手がいい気分でいられることに限らない。
良薬口に苦しというが、人の言葉も同じ時がある。
その時その薬を苦いといって受け取らないのか、
受け取るかは本人の問題だ。
多くの人間は、ゴキブリが嫌いである。ゴキブリが嫌いな理由は、なんだろう。
ゴキブリに襲われたことがあるから?ゴキブリは汚いから?
多くの人は、ゴキブリに過去になにかされたことでトラウマになっているのではなく、
単純に、親がゴキブリを嫌っていて、汚いから触るなとか、怯えながら、もしくは戦いながら言っただろう。
そうすると、子供は、ゴキブリ=汚くて、気持ちが悪い、殺すべき生物 としてインプットされる。
そして、心理学で有名な話に、何度も子供に白兎を見せた後に、必ず大きな物音をさせて怖がらせたら、子供はどんな学習をするかという実験がある。
ゴキブリの話と同じ結果である。子供は、白兎を怖がるようになった。
白兎=大きな物音を立てる恐ろしい生物 というわけだ。
私にも同じような学習はたくさん存在する。
特に、自分=?
自分はどんな生物として認識しているか、ということだ、
今回周りからもらったメッセージとして、
- 人にお願いをしない、自分が求めていることを言わない
- 人に意見する時に回りくどくなる
- 常に自分に怒りを感じている
- 感情や意見を言わない
- 義務感で動いているように感じる
なぜ、こういった行動をとるのだろうか?と考えてみた。
そこに合った一つの答えとして、
自分=価値のあるものはふさわしくない存在
という考えだった。
私がうまく言っていない時、「灰かぶり姫」みたいな感じの気持ちになる。
自分はこうしたいのに、自分にはふさわしくないし、禁止されているから、やらないでおこう、とか。
誰かの召使いになっていると自分にはふさわしいと思う一方、縛られているから自由を感じなくて怒りを感じる。
だから、食事をしていても、「私はこんなことをしている場合じゃない、もっと召使いとして誰かのためにしなくては」と思う。
自分の好きなことをすると、罪悪感が出てくる。自分のためにお金をつかい、自分のために時間を使っているのは、悪だったのだ。
朝起きると、頭の中で声がする。
「自分のことばっかりしている場合じゃないよ!急ぎなさい!早く、周りの人のためにやることやりなさい!何楽しんでいるんだ、調子にのるんじゃないよ!周りの人の世話をちゃんとみなさい!周りの人とは感情を殺して我慢してでも、仲良くしなさい!あんたは、協調性がないから、もっと協調性を身に付けなさい!どんな時でも常に愛想よくしなさい!あんたは頑固なんだから、ちゃんと周りを考えて融通きかせなさい!周りの失敗は全部あなたの責任だから尻拭いは自分でしなさい!お姫様じゃないんだから、遊んで暮らせないんだら、働きなさい!あんたにはそんな素敵なものは似合わないわ!自分のことばっかり考えてちゃダメよ!自己中心的(ジコチュー)は嫌われるから、絶対に自己中心的なことは考えないように!」
(また、山ほどやらなくちゃいけないことがある、いやな1日が始まるよ・・・)
いろんな禁止の言葉や、似合わない、ふさわしくない、楽しんじゃいけない…
そういう否定的な言葉が一日中頭を巡っていることに気が付きました。
頭に、シンデレラの継母を飼っているようなもんです。
自分の人生を生きられていないと感じるのは、
この「周りに自分を捧げろ、自己犠牲しろ」という強迫観念がそうさせているのかもしれません。
そう生きろと言われても、私には耐えられません。だから、怒りが溜まっているのだと思います。
親から言われたのか、学校の先生から言われたのかはわかりませんが、そういう学習をしてきたんだと思います。
「みんなのために」って言葉は美しいです。今思い返すと、「自己中心的」に生きることを嫌っていました。
自分の意見を言うことは、ジコチューで、嫌われる、だから言わないでおこう、みんなに従っていれば大丈夫。
授業だけは意見を言える場でした。挙手の回数もダントツで1位。挙手を嫌がる年齢になっても、挙手し続けていました。
それは、「許可」されている場だから。友達と遊ぶ時は、自分の意見は言えない。だから、ディベートも大好きでした。
休み時間に話をするのも聞き役に徹していました。だから、今も人に「聞く」のはうまくなったのだと思います。
かといって、普段口数は多いです。友達と話をするのも苦では有りません。
事実や情報などのストーリーを話すのは平気ですが、自分の意見を言うとなると、躊躇します。
「自分にはふさわしくない」「人のために」に縛られてきた人生だから、
「主体性がない」「自由じゃない」って思ってきたのだと気づきました。
灰かぶり姫を脱却して、シンデレラになれるように、日々自分を愛すること、頭の中で再生される声をリニューアルできればいいなぁと思います。
朝起きたら、
「あなたって今日も本当に素敵!あなた自身のために用意した、美味しいご飯をゆっくりたべて、あなたが愛する仕事をのびのびとして、今晩もゆっくりお風呂に入って、温かい布団でぐっすり眠りましょう、幸せね!自分の好きな時に好きなことをしていいのよ。あなたの人生なんだから!あなたが望むことは、どんなことだって叶うわ!失敗したら、この方法がうまくいかなかったことがわかった!と前を向くだけよ。周りの人とあなたは対等なパートナーシップを結んでいるわ。あなたが何を望むのか伝えてもいいのよ。相手もあなたが何を望むのか知れて喜ぶし、相手もあなたに望みを言いやすくなるわ。お互いのハッピーが理解し合えるのは幸せなことね。」
(今日はどんなハッピーなことが起きるだろう♥)
こんな一日のスタートがきれたら、毎日が楽しいでしょうね!!!
新しい習慣として3ヶ月やってみよ〜っと。