私は、小さい時から、結果を出すのが好きで、
特に、絵や文章などを描かせれば、必ず賞をとっていた。
賞状を親が大切にとっておいたり、当時の受賞記念品を今でも玄関に飾っているほどだ。
(まぁ、ぬいぐるみなので、かわいいから飾っているのかもしれないけど)
少なくとも、賞をとったら、親はとても喜んでいたし、私もそれだけの結果を出せる自分が誇らしかった。
それはうまくいくこともあった。しかし、高校生、大学生、社会人と進んでいくにつれ、
結果を出す難易度は上がっていったし、結果が出ないこともあった。
結果が出るのが当たり前だった私にとって、思い通りにならない世界だった。
私は、その世界をつまらないと感じ始めた。
社会人になって、自分の思うような結果が出せないと、いろんなことにチャレンジした。
それは、会社から評価された部分もあった。チャレンジする人自体が珍しいからだ。
うまくいっていたこともあったが、少しでも自分の思い通りにならなくなると、
私はすぐに自信を無くして、人の目に怯えるようになった。
相談すればいいことなのだろうが、その「思い通りにならない事態」は、
私にとって、汚点だと感じていた。
だから、緊急状態(いわゆる炎上案件)になるまで隠していたりして、とても迷惑をかけた。
最後まで自分でやりきる力があるという面、人に相談したり、頼ったりするのが苦手だった。
前職では、チームリーダーをしていたが、チームワークなんて生まれなかった。
私は独りよがりだったし、周りはどうサポートして欲しいかわからない。
高校生の時は、毎日がつまらない。早く大人になりたい。
大学生の時は、毎日がつまらない。早く社会人になりたい。
社会人の時も、毎日がつまらない、と感じていた。
正確には、つまらないというより、「満たされない」。
だから、何かが私を楽しませてくれるのではないか、
私を満たしてくれるのではないかと思い、
いろんなことにチャレンジしたし、いろんな交流会に行っては、
人に会っていた。違う交流会の飲み会をちょっと顔を出す感じで、
3件はしごしたりした。
彼氏を作ってみたり、ちょっと大きな買物をしてみたり、
英語を勉強して、海外にホームステイしてみたり、
自分探しの海外への1人旅を何度もした。
とにかく、私は、頑張っていた。それこそ、寝食を犠牲にして。
やればやるほど、私は、楽しくなかった。満たされなかった。
どこにいっても、私は、私なんだと絶望した。
何も私を変えてはくれないんだ。どんなにお金を使っても。どんなに環境を変えても。
どんなに楽しいことをしても、幸せを感じない、満たされない自分の人生に、半ば絶望し始めていた。
何をしても、私は、いつも不安で、怯えて、罪悪感を感じながら、楽しくない人生をこの先も過ごすのか。
30歳の時に、私は、そう感じて、残りの50年余りの人生に、うんざりした。
ちょっと自分が思い通りにならないだけで、不満、不安が溜まっていく。
30年貯めてきたものは、私の体に物理的な影響も出し始めた。
膀胱や腎臓や子宮など、貯める部分に不調が出始めてきた。
自分をひっかくクセもあり、特に手の甲や足のスネ、ふとももの内側、外側を中心に、肌はボロボロになってきた。
しまいには、片方の耳が聞こえなくなった。
どれも、自分の免疫と体のめぐり(循環)が悪いのが原因だったように思う。
心がどんよりしていると、体もどんよりしてくるのがよくわかる。
私の心も体も灰色って感じだった。
私は、会社や交流会で、自分が役に立っていないと、自分が満たされなかった。
私が生み出した結果=自分の価値だと信じていた。
私の失態・うまくいかないこと=自分の価値だと信じていた。
その時の気分は、まるで灰かぶり姫みたいな気分で、奴隷みたいな気分になった。
誰かのためにしか生きちゃいけないみたいな、価値がない自分って感じだった。
だから、結果がきれいに美しくなければいけなかった。少しでも、問題があれば許せなかった。
他人の評価=自分の価値だった。だから、周りの意見や要望があると、自分への批判と捉えてしまった。
平均点以上は取りたい。問題は起こしたくない。でも、何か他の人がしないような結果を出して、自分の価値を維持したい・・・と思うようになった。
問題が起きると、自分の価値は下がった。
自分の落ち度でなくても、自分の結果として受け取り、自分の価値は大きく下がった。
だから、罪悪感はすごかった。
そうなると、周りの人に使わない時間やお金に対する罪悪感がとても大きくなった。
何か結果を出していない自分には、ご飯をゆっくり食べる価値はない、
自分が満足するようなお金の使い方はしない、我慢するようになった。
だから、1時間ある休み時間をとらなかったり、無理な残業をするようになった。
楽しんだり、調子にのると、悪いことが起きると思っていたので、
できるだけ不幸なフリをした。
もし、これだけ頑張っているから、どんな結果でも許してくれるだろうという考えもあった。
仕方ないと思ってもらうためだ。同情を買うことができる。
そして、様々なことを理由に出して、「自分は悪くない」と証明するのにも必死だった。
もしくは、「全部自分が悪い」と思い、むやみに自分を落ち込ませていた。
こんな生活やこんな考えの中、生きてきた。楽しいわけがない。
私が信じていた「結果=自分の価値」というのが、「結果≠自分の価値」だということ。
そんなに必死に周りに媚びなくてもいいのだし、自分の意見は言ってもいいのだし、
何か言われても、あなたはそう思うのね、というフラットな考えになれる。
自分は、自分の存在価値を認められなかったから、いろんなことにチャレンジしたり、
いろんな人脈、売上を集めて、結果を作っていた。
自分には何もないと思っていた。だから、自分の存在価値を感じられる結果を集めていた。
満たされない心を埋めるために、結果を集めていたのだ。
まるで、それは中毒みたいな感じだった。結果が出てないと、もっともっとと大きな結果を求めてしまう。
一見、行動力や決断力、チャレンジ精神があり、うまくいくように見えるけれど、
目的は与えるためではなく、自分の心を埋めるという目的だった。
常に満たされていない、まるで千と千尋の神隠しのカオナシみたいな感じだ。
モノやお金でなんとかしようとしたり、自分の気持ちを表現せず、他の誰かの声を借りたりする。
まさに過去の私だった。
今、「結果≠自分の価値」ということに気づいて、毎日が楽しい。
2020年は、私にとって挫折や失敗を味わう苦い年となっている。
でも、それも必然だと思う。うまくいっていれば、今回のようなことには気づかない。
うまくいっていないからこそ、自分の価値を見失いそうだったからこそ、
今回、「結果≠自分の価値」ということに気付けたのだ。
「自分の価値」が揺るぎないものとなった時、私は、本当の自由を感じれるようになった。
そして、満たされ、幸せを感じれるようになった。
こんなにも、単純なことなのに、心で理解しないと、得られないことだった。
1年前に、いろんなことに忙しそうに顔を出している私に対して、
一生懸命にやっているけど、全部同じに見えると、夫に言われたことが、ショックだったけど、
今思うと、自分の価値を埋めるためにやっているということを伝えたかったことが今になってよくわかった。
他人からは見えるけど、自分のことは本当によくわからない。
だけど、自分を知ることはとても楽しい。